普段は三輪神社の神職をしながら、当ページやXで神社の豆知識や日々思ったことを綴っています。
私は大須の神社で奉仕する私が、神社や史跡を巡りながら、町の歴史を案内する記事を書いています。
今回は 「大須歴史散策 第4弾」 として私の奉仕している三輪神社から徒歩7分程度の場所に鎮座する「春日神社」を紹介いたします。
なお、当シリーズは下記の通り、5弾の構成で公開いたしますので、ぜひ他のページもご覧ください。
神職けん による名古屋・大須の神社史跡案内シリーズ
第4弾 春日神社 ― 前津の鎮守として受け継がれてきた春日信仰
第5弾 富士浅間神社と浪越山 ― 富士山信仰と古墳が残る大須の聖地

目次
- 1 小林村の鎮守「三輪神社」と前津村の鎮守「春日神社」
- 2 創建年代は不明 ― 社伝に残る創建の由緒・伝承
- 3 大須・春日神社の由緒は「ここで一夜を過ごした」という伝承に始まる
- 4 春日神社の御祭神「武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神」はどんな神?
- 5 武運の神として武具の奉献を受けてきた
- 6 奈良・春日大社を模した本殿「春日造とはどんな特徴?」
- 7 春日神社には「狛犬」ではなく「狛鹿」がいる
- 8 尾張徳川家と春日神社
- 9 蚊の名所だった春日神社周辺
- 10 春日神社の末社 津島天王社はスサノオ命を御祭神として祀る
- 11 まとめ|神職として伝えたい春日神社の魅力
- 12 次章予告|富士浅間神社 ― 大須にある「富士山」の神社
小林村の鎮守「三輪神社」と前津村の鎮守「春日神社」
春日神社は、奈良県奈良市に鎮座する春日大社を本社とする神社です。
かつて大須周辺は前津地区と小林地区からなる「前津小林村」に属していました。
前津小林村では氏子地域は下記のように分かれていたようです。
- 小林地区の鎮守:三輪神社
- 前津地区の鎮守:春日神社
つまり三輪神社と春日神社は、それぞれ異なる地域の氏神として人々の暮らしを見守ってきた神社なのです。
創建年代は不明 ― 社伝に残る創建の由緒・伝承
創建はいつなのか
社伝では奈良・春日大社から御祭神を勧請したことが始まりとされていますが、その年代については諸説あります。
ここからは『尾張名陽図会』『前津旧事誌』『尾張志』の記述を確認していきましょう。
『尾張志』
大和国添上郡春日祭神四座と見えたるを移してここに祭れるなり うつし奉れる年月知かたし
『前津旧事誌』
勧請の年代明ならずと雖も、同社にある由緒によれば天暦年間大和の春日神社を模したるものといへり。
『尾張名陽図会』
牧氏城の近辺にまつる所にしてすなはち建立なり。
『尾張志』では春日神社を奈良県から遷したものと説明していますが、創建年代は不明としています。
『前津旧事誌』では勧請の年代は不明であるが、天暦年間(947年〜957年)に奈良県の春日大社を模して創建したとの社伝を紹介しています。
『尾張名陽図会』では牧氏の小林城の近辺に祀られたとしています。小林城は1548年頃に築城され、1570年に役目を終えたとされていることから、1548年から1570年の間に創建されたという説に立っていることがわかります。
このように春日神社の創建については明らかになっていません。
大須・春日神社の由緒は「ここで一夜を過ごした」という伝承に始まる
本社である春日大社の創建については諸説ありますが、社伝では神護景雲2(768)年に茨城県の鹿島神宮から武甕槌命(タケミカヅチ命)と千葉県の香取神宮から経津主命(フツヌシ命)、大阪府の枚岡神社から天児屋根命(アメノコヤネ命)・比売神(ヒメ神)を併せてお祀りしたのが始まりとされています。
鹿島神宮から武甕槌命を奈良県にお招きした際、武甕槌命は大須でご宿泊なさったとの伝承が残されており、これにちなんで天暦2(948)年に創建されたとのいうのが現在の春日神社の社伝のようです。
史実として確認できるものではありませんが、各地の春日神社にもこれに似た「春日大神の旅」の伝承を残しているところがあります。
牧長清による再興
春日神社の社伝にも、小林城主であった牧長清が再興に関わったと伝えています。
三輪神社・富士浅間神社にも同じ人物の名が残ることから、大須の神社群の整備に深く関わった人物であったことがうかがえます。
春日神社の御祭神「武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神」はどんな神?
春日神社のご祭神は下記の4柱の神々です。
武甕槌命(タケミカヅチ命)
経津主命(フツヌシ命)
天児屋根命(アメノコヤネ命)
比売神(ヒメ神)
このように奈良県の春日大社と同じ4柱の神々をお祀りしています。
武甕槌命は鹿島神宮のご祭神で、国譲りや神武天皇の東征の段に登場する神
武甕槌命は茨城県の鹿島神宮のご祭神です。
まずは『古事記』の内容を確認してみましょう。
『古事記』国譲りの段
天上世界にいらっしゃったアマテラス大神はこの国を孫にあたるニニギノ命に治めさせるべく、タケミカヅチ命を地上に向かわせました。地上世界を治めていたオオクニヌシ神に国を譲るように提案すると、オオクニヌシ神は息子であるコトシロヌシ神とタケミナカタ神が良いといえば譲ると答えました。
コトシロヌシ神は提案をすぐに受け入れましたが、タケミナカタ神はタケミカヅチ神に力比べをすることを提案します。結果、タケミナカタ神はタケミカヅチ神に敗れ、国譲りが行われました。
以上が、国譲りの場面のあらすじです。
次に、同じく『古事記』から神武東征のあらすじを確認しましょう。
『古事記』神武東征の段
神武天皇一行が熊野で荒ぶる神の毒気にあたり、兵も神武天皇も倒れてしまいます。これを見た天照大御神と高木神は建御雷神を遣わそうとしますが、タケミカヅチ神は「自分が行かなくてもよい」と答え、自らの神剣・布都御魂(ふつのみたま) を高倉下の倉へ降します。その剣を受けた神武天皇は目を覚まし、一行は再び東征を進めることができました。
上記は神武天皇の東征にて武甕槌命が現れた場面のあらすじです。タケミカヅチ神が届けた布都御魂は現在、石上神宮の御神体としてお祀りされています。
経津主命は千葉県の香取神宮のご祭神で、『日本書紀』では武甕槌命とともに国譲りを成し遂げた
経津主命は千葉県の香取神宮のご祭神です。
『日本書紀』の内容を確認してみましょう。
『日本書紀』国譲りの段
タカミムスヒ尊が葦原中国を平定するため、まずフツヌシ神を遣わそうとします。そこへタケミカヅチ神も同行を願い出て、二柱は出雲の五十田狭之小汀に降ります。オオナムチ神(=オオクニヌシ神)に国譲りを求め、その子・コトシロヌシ神とタケミナカタ神とのやり取りを経て、国が譲られることになりました。
『古事記』では国譲りの中心となるのは武甕槌神ですが、『日本書紀』本文では、最初に選ばれた使者はフツヌシ神で、タケミカヅチ神は後から同行する形で派遣されています。
天児屋根命は枚岡神社のご祭神で、中臣氏(藤原氏)の祖神
天児屋根命は大阪府の枚岡神社のご祭神で、藤原氏の祖神と言われています。
藤原氏とは、大化の改新で活躍した中臣鎌足が天智天皇から「藤原」の姓を賜ったことに由来する一族で、平安時代以降には活躍しました。
藤原不比等は奈良時代、藤原氏の氏神として春日大社を創建した人物とされており、春日信仰が藤原氏の氏神信仰と大きくかかわっていることがわかります。
まずは『古事記』から天児屋根命が登場する天岩戸の段のあらすじを確認しましょう。
『古事記』天岩戸の段
スサノオ命の乱暴な振る舞いに心を痛めたアマテラス大神が天岩戸へお隠れになり、世界は闇に包まれてしまいます。八百万の神々は岩戸の前に集まり、アメノコヤネ命は天香山の榊に鏡や勾玉を飾って祝詞を奏上しました。その後、アメノウズメ命の舞に誘われてアマテラス大神が岩戸を開き、再び世に光が戻ります。
このように『古事記』では天児屋根命は祝詞を奏上して祭祀を司る神として描かれています。
次に『日本書紀』の内容を確認してみましょう。
『日本書紀』天孫降臨の段
タカミムスヒ尊がニニギ尊に葦原中国を治めるよう命じ、この世界に降りることになりました。。その際、アメノコヤネ命はフトタマ命・アメノウズメ命・イシコリドメ命・タマノミオヤ命とともに「五伴緒神」の一柱としてニニギ尊に随行しました。アメノコヤネ命はニニギ尊に従って地上へ降り、祭祀を司る神としてニニギ尊を支える役割を担います。
このように『日本書紀』では天孫たる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き添い、この世界の統治を助けた神とされています。
比売神は枚岡神社のご祭神だが、その正体には諸説ある
比売神は、春日神社で祀られる四柱のうち唯一、『古事記』や『日本書紀』に「比売神」という神名で登場しない神様です。
春日大社では一般に天児屋根命の妃神として祀られていますが、その神格については諸説あります。天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)に比定する説や、姫大神とする説などがあり、どの神を指すのかは古くからさまざまな伝承があります。
そのため、多くの春日神社では「比売神」としてお祀りし、女性の神様として春日大神の一柱に数えられています。
武運の神として武具の奉献を受けてきた
ご祭神には武甕槌命・経津主命という武神をお祀りしていることは先述の通りですが、江戸時代以降も武運の神として様々な武具の奉納を受けてきました。
天保12年11月には尾張徳川家第12代当主であった徳川斎荘は白羽の矢を奉納、明治39年8月10日には陸軍大臣寺内正毅(後の第18代内閣総理大臣)により日露戦争の戦利品として砲弾1個が奉納されたと記録されています。
奈良・春日大社を模した本殿「春日造とはどんな特徴?」
大須の春日神社は、春日大社を模して造営されており、春日造の本殿をしています。
以前「本殿の建築様式」の記事でも紹介しましたが、春日造は下記のような特徴を持っています。
曲線的な妻入りの屋根
正面に緩やかな曲線を描いて伸びる向拝。
ただし、本殿の様子は様々な角度から覗いても、全体像を確認することはできませんでした。
最も広い範囲を一度に見ることができるのは裏手の駐車場ですが、向拝など正面の造りは見ることができません。
春日神社には「狛犬」ではなく「狛鹿」がいる
神社の境内には魔を避ける存在として「狛犬」が置かれていることがおおいですが、春日神社には「鹿」が置かれています。
ここからは春日信仰と鹿の関係について紹介していきます。
武甕槌命は鹿に乗って奈良へ来た
春日大社の伝承では、常陸国(現在の茨城県周辺)の鹿島神宮から武甕槌命は白鹿に乗って奈良へいらっしゃったとされています。
このため鹿は春日大神のお使い(神使)となりました。
春日神社には、明治三十八年に雌雄二頭の鹿が奉納され、境内で飼育されていたという記録があります。
現在は鳥居越えてすぐのところに一対の鹿の像だけが残っていますが、当時は本当に鹿が境内にいたそうです。

尾張徳川家と春日神社
大須には尾張徳川家との関係が深い神社が多くあり、春日神社もその一つです。
ここからは尾張徳川家に関する伝承として、徳川光友の母である お万の方の話を紹介します。
女性の願いを聞く神様としての信仰「徳川光友の母・お万の方の伝承」と椎の御神木
春日神社には、古くから「女性の願いを叶える神社」という信仰があります。
その由来として伝えられているのが、尾張徳川家との逸話です。
徳川光友の母が乳房の病を患った際、春日神社へ祈願したところ快癒したと伝えられています。
このことから、境内の椎の葉を授かり病気平癒を祈る信仰が広まり、安産・子育て・女性の病気平癒を願う参拝者が多く訪れるようになったとされています。
残念ながら、この椎の木は戦災で焼失しまいましたが、現在は後継となる木が植えられています。
神社を歩く際には、ぜひ境内の植物にも目を向けてみてください。
蚊の名所だった春日神社周辺
春日神社辺りには奈良の春日大社に倣って池が掘られ、猿沢の池と呼ばれていたようです。
牧長清は池に船を浮かべて楽しんでいたとされています。
また、周囲は林に囲まれていたようで、現在の住宅街からは想像できないほど自然豊かな神社だったようです。
明治以降も田んぼが多かったようで、蚊が非常に多い地域だったとも記されています。
春日神社の末社 津島天王社はスサノオ命を御祭神として祀る
境内入って左奥には小さいお社が鎮座しています。このお社には由緒書きや社名などがわかる記載は在りませんが、津島天王社というようです。
ご祭神はスサノオ命で、尾張地方で非常に広く信仰されています。
前津の氏神である春日神社にも、地域を守る神としてお祀りされています。
まとめ|神職として伝えたい春日神社の魅力
春日神社は華やかな神社ではありません。
しかし、この神社には
- 前津の氏神として地域を守ってきた歴史。
- 奈良・春日大社へつながる春日信仰。
- 尾張徳川家とのご縁。
- 女性の祈りを受け止めてきた信仰。
が静かに息づいています。
前津の歴史を知ると、この神社が地域の中心だった時代の景色が見えてきます。
次章予告|富士浅間神社 ― 大須にある「富士山」の神社
次章では、富士浅間神社をご紹介します。
- なぜ名古屋・大須に浅間神社があるのか。
- 富士山信仰と富士塚(浪越山)。
- 木花咲耶姫命の神話。
- 清寿院と神仏分離。
- 名古屋三名水「柳下水」の歴史。
あなたの街歩き原稿と由緒書きをもとに、神職向けの正確な内容へ全面リライトします。