普段は三輪神社の神職をしながら、当ページやXで神社の豆知識や日々思ったことを綴っています。
名古屋市大須の神社で奉仕する私が、神社や史跡を巡りながら、町の歴史を案内する記事を書いています。
今回は 「大須歴史散策 第5弾」 として「富士浅間神社」を紹介いたします。
このシリーズでは、大須に残る神社や史跡を一つずつ取り上げながら、町の歴史や文化を神職の視点で分かりやすく解説していきます。今後も新しい史跡や神社を追加していく予定ですので、ぜひ他の記事もあわせてご覧ください。
神職けん による名古屋・大須の神社史跡案内シリーズ

目次
富士浅間神社のご祭神は木花咲耶姫命をはじめとした5柱
富士浅間神社は、静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社を本社とする神社です。
ご祭神は下記のとおりです。
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
天照大神(あまてらすおおかみ)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
楠正成(くすのきまさしげ)
和気清麻呂(わけのきよまろ)
守屋大連(もりやのおおむらじ)
木花咲耶姫命はどんな神?富士山を象徴する女神について
木花咲耶姫命が登場する『古事記』の場面を紹介します。
『古事記』天孫降臨の段
アマテラス大神の孫であるニニギ尊は、美しいコノハナサクヤヒメ命と出会い、妻に迎えます。コノハナサクヤヒメ命の父・オオヤマツミ神は、姉のイワナガヒメもあわせて嫁がせました。しかし、ニニギ尊はイワナガヒメを容姿が醜いとして送り返し、コノハナサクヤヒメ命だけを妻としました。
これに悲しんだオオヤマツミ神は、「イワナガヒメも妻として迎えていれば、あなたの命は岩のように永遠であった。しかし、コノハナサクヤヒメ命だけを迎えたため、花のようにはかない命となるだろう」と告げます。
その後、コノハナサクヤヒメ命は身ごもりますが、ニニギ尊から「他の神との間の子ではないか」と疑われます。そこでコノハナサクヤヒメ命は自ら火を放った産屋の中で三柱の神を無事に出産し、身の潔白を証明しました。
以上が『古事記』天孫降臨の段のうち、木花咲耶姫命が登場する部分のあらすじです。
『日本書紀』にもほとんど同じ内容の物語が記されています。
木花咲耶姫命は富士山本宮浅間大社のご祭神とされていますが、この神社はもともとは人間の力では及ばない富士山そのものを神として拝む自然信仰でした。
その後、富士山を人格神として表した存在が「浅間大神」とされ、『古事記』『日本書紀』の木花咲耶姫命と結び付いたと考えられています。
富士山の美しさと何度も噴火をする部分を結びつけて木花咲耶姫命が御祭神とされたのかもしれません。
瓊々杵尊は天照大御神の孫で、高天の原から地上の国に降り立った神
瓊瓊杵尊についても『古事記』のあらすじで確認しましょう。
『古事記』天孫降臨の段
アマテラス大神の子であるオシホミミ命とヨロヅハタトヨアキツヒメ命の子として生まれたのがニニギ尊です。アマテラス大神は高天原と呼ばれる天上世界から地上の世界のオオクニヌシ神に向けて、国を譲るよう使者を送り、了承を得ることに成功します。
ニニギ尊に三種の神器を授けて日向の高千穂へ降りたち、オオヤマツミ命の娘であるコノハナサクヤヒメ命を妻に迎え、ホデリ命(海幸彦)やヒコホホデミ尊(山幸彦)等の御子神が生まれました。
以上が、『古事記』の天孫降臨の段のあらすじです。
『日本書紀』でも、天照大神の神勅を受けて高千穂へ降臨する物語が記されており、木花開耶姫との婚姻や三柱の御子についても語られています。
以上のように、瓊々杵尊は天照大神の孫として天上から地上へ降臨し、木花咲耶姫命と結ばれ、その子孫が神武天皇へとつながっていく神話の中で重要な役割を担う神です。
大山祇命は山を司る神で、多くの神の父神として描かれている
大山祇命を物語の主要な神として記載する場面は『古事記』『日本書紀』にはかなり少ないですので、登場する場面をいくつか紹介しておきます。
・神生みの場面 『古事記』ではイザナギ命とイザナミ命との間に生まれました。『日本書紀』にはイザナギ命が火の神であるカグツチを斬った際に生まれたとする記述もあります。
・ヤマタノオロチ退治の場面 『古事記』ではアシナヅチ・テナヅチの父神として現れます。アシナヅチ・テナヅチはスサノオ命の妻となるクシナダヒメの父と母です。
・ 天孫降臨の場面 『古事記』『日本書紀』ともにコノハナサクヤヒメ命の父神として現れます。詳細はコノハナサクヤヒメ命の段落を参照してください。
以上が、大山祇命が登場する『古事記』『日本書紀』の場面のまとめです。
記紀の中で物語の中心として登場することはありませんが、ご祭神としている神社は非常に多く、全国で親しまれている神です。
天照大神は皇室の祖先神で、伊勢の神宮(内宮)でもお祀りされている
『古事記』では、伊邪那岐命が黄泉の国から戻り、禊を行った際に左目を洗ったことでアマテラス大神が生まれたとされています。アマテラス大神は高天原と呼ばれる天上世界を治める神となり、弟であるスサノオ命との間には天岩戸神話などの有名な物語があります。
また、アマテラス大神は孫であるニニギ尊に三種の神器を授け、地上へ遣わしたとされます。ニニギ尊はアマテラス大神の孫にあたることから、アマテラス大神は皇室の祖神としても重要な位置を占めています。
伊勢の神宮(内宮)にお祀りされており、長い歴史の中で皇室や国家との関わりを持ちながら、現在まで篤い信仰を集めている神様です。
神話での登場場面が多い上に、非常に有名な神様ですので、『古事記』『日本書紀』の抜粋は省略させていただきました。
彦火々出見尊は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の子で、山幸彦とも呼ばれる
まずは『古事記』のあらすじを確認しましょう。
『古事記』山幸彦の段
コノハナサクヤヒメ命は燃える産屋の中で海幸彦(ホデリ命)は海で魚を獲り、弟の山幸彦(ホオリ命=彦火々出見尊:ヒコホホデミ尊)を生みました。
兄の海幸彦は海で魚を獲り、弟の山幸彦は山で狩りをしていましたが、ある日、二人が互いの道具を交換して狩猟に出かけた際、山幸彦は兄の釣り針を失くし、逆鱗に触れてしまいます。
失くした釣り針を探すため海へ向かった山幸彦は、海神の宮へ行き、海神の娘・トヨタマヒメ命と結婚します。その後、海神の助けを借りて失った釣り針を見つけ、兄の海幸彦のもとへ戻ります。
その後、トヨタマヒメ命との間に生まれた子が、神武天皇の父となるウガヤフキアエズ命です。
以上が『古事記』の「海幸彦山幸彦」の物語のあらすじで、初代神武天皇の出生につながる大切な場面です。
『日本書紀』にも『古事記』とほとんど同じ内容が記されています。なお、神武天皇も彦火々出見(ひこほほでみ)という名前が付けられており、祖父と子で同じ名前となっています。
洲崎神社にあった湊川神社を富士浅間神社境内に遷座、楠正成・和気清麻呂・守屋大連を合祀した
もともとは主祭神として木花咲耶姫命をお祀りし、瓊々杵尊、大山祇命、天照大神、彦火々出見尊をお祀りしていましたが、新たに加えられた神々について紹介いたします。
富士浅間神社から北に15分程度歩いたところに洲崎神社があります。この境内にはかつて、湊川神社という神社が鎮座していました。この神社が、明治9(1876)年に富士浅間神社の境内の飯綱権現社跡に遷され、大正元(1912)年には富士浅間神社本殿に合祀されました。
富士浅間神社に合祀された湊川神社の神々は下記の3柱です。
楠正成(くすのきまさしげ)
和気清麻呂(わけのきよまろ)
守屋大連(もりやのおおむらじ)
楠正成は後醍醐天皇を支え、鎌倉幕府打倒に貢献した人物です。延元元(1336)年の湊川の戦いで足利尊氏軍に敗れましたが、最期まで忠義を尽くしたことで知られています。その忠誠心から「忠臣」の象徴として広く信仰されています。
和気清麻呂は奈良時代から平安時代初期に活躍した朝廷の官人です。宇佐八幡宮の神託を朝廷へ伝え、僧・道鏡の天皇になろうとする企てを退けた人物として知られています。その後、桓武天皇に仕え、平安京への遷都にも尽力しました。
物部大連は、一般に物部守屋といい、飛鳥時代に朝廷で重役を務めた人物です。神道の祭祀や伝統を重んじる立場から仏教受容派の蘇我馬子と対立、蘇我氏に敗れましたが、古代日本の信仰や祭祀の歴史を語る上で欠かせない人物として知られています。
富士浅間神社の創建と由緒「大須に鎮座する理由」
つぎに、富士浅間神社の創建について紹介します。
創建にはいくつかの説がありますので、史料を確認していきましょう。
『尾張志』
浅間社 南寺町淸壽院境内にあり明應四年はしめて建立す。大永六年当郡小林城主牧氏某これを造営すといへり
『尾張名所図会』
富士山観音寺淸寿寺 本尊富士権現は土御門天皇の勅によりて、駿河の浅間大神の神職、此地に勧請して造営ありしなり。
『尾張名陽図会』
人皇十三代土御門院御宇勅によりて駿州富士の神職この地に勧請ありしとかや。
『尾張徇行記』
浅間祠、在南寺町淸寿院境内、明応四年卯勧請之、其後大永六年丙戌、同郡小林邑牧氏某造営之、明暦元乙未年重修
『尾張志』と『尾張名所図会』では、後土御門天皇の御代に富士山本宮浅間大社から勧請されたと伝えており、社伝もこの説に立っています。
一方、『尾張徇行記』では、小林城主 牧長清 が勧請したと記されています。
牧長清と富士山信仰
大須の神社には現在の大須四丁目にあった小林城主である牧長清という人物の名前が多く登場し、大須の社寺の再建に関わったことで知られています。
富士浅間神社には牧長清についての話が残っていますので紹介します。
『尾張名所図会』
中世前津小林の城主 牧与左衛門尉源長清が富士権現を崇信して、七度参詣の志願を発し、三度駿河に下りて登山ありしが、晩年に及びて遠路に堪へがたく、残る四度を此社に詣でて、其願をはたせし故、其砌当社を再営ありしとぞ。
『尾張名陽図会』
当国小林の城主 牧与左衛門尉源長清、駿河国富士山を信じ七度禅定の志願有りしが、老年に及んで四度残りしかども、遠路の旅行なりがたきゆえ在城の近辺にこの社有るを幸として、当山に参請して七度禅定の結願を招らせる。その砌、当社を再営有りしとなり。
『尾張徇行記』
浅間祠は、小林城主牧若狭守長清、当時駿州富士山七度禅定の願を興し、三度登山せられし、然共一城の主戦国の時、旅行之事も遠慮有て、其素意を果す事不能。因是城の近境に富士浅間の神を勧請し、且富士塚七丘を築きて禅定結願の表に擬せられしとぞ
これらの史料から、牧長清は一生に七度富士山へ登拝したいと願ったが、実際には三度しか登ることができず、この地に浅間神社を祀って富士山登拝に代えたということが伝わって。
修験道と結び付いた「清寿院」と「富士浅間神社」
現在は富士浅間神社という名称の神社ですが、創建当時から修験道の修行の場だったと考えられます。
そのことが分かる史料はいくつかありますが、今回は『尾張名所図会』を紹介します。
『尾張名所図会』
山城国醍醐の三宝院の派、尾張・美濃二箇国の修験の先達なり。(中略)また信長公の家臣村瀬左馬助の末孫、修験となりて大円坊といひしが、大乗院及び此院を兼帯住持せし 其子宝寿院、国君より当社の地を拝領し、淸寿院の号を賜る。
祈祷所 本尊不動明王。蔵王権現・役行者・理源大師を合わせ祭る。
行者堂 本尊正観音は聖徳太子の作。夾侍弘法大師・役行者なり。
飯綱権現社 神像六尺有餘にして、恐ろしき尊容なり。もとより霊験あらたかなる像なり(以下略)
このように、創建と由緒に修験道の影響を強く受けており、祈祷所等でも仏教(密教)や山岳信仰が実践されていたことが分かります。
なお、『尾張名陽図会』にもほとんど同じ内容が記載されており、飯綱権現社については「富士権現の後方、北西の位置に鎮座しており、黒木の柱の社殿」という詳細な記述もあります。
また、尾張徳川家初代当主である徳川義直より社地を拝領し、「清寿院」の号を賜ったとのことです。
江戸時代は富士山信仰が発展し、「講」組織が形成されて民衆にも受け入れられていた時期でした。
富士登山を夢見る者は多かったでしょうが、これが困難であるとのことで人工的または自然に作られた小山を富士塚と呼び、富士登山に代える風習・信仰が広がっていました。
尾張徳川家の富士浅間神社への篤い崇敬
尾張藩初代藩主である徳川義直より、社地を拝領し、清寿院の号を賜ったのは先述の通りですが、富士浅間神社には尾張徳川家との関係を示す記録が多数存在します。
寛永10(1633)年に本殿が大破した際には徳川義直の正室である高原院が社殿を再建し、2代藩主の徳川光友によって修繕が行われています。さらに、8代藩主徳川宗勝、9代藩主徳川宗睦、第12代徳川斉荘も本殿の修繕に関わっています。
江戸時代の富士浅間神社は尾張徳川家の安産の祈祷所となっており、崇敬を受けていたようです。
昭和3年の大修繕と戦災を免れた社殿
昭和4(1929)年に本殿の大改修が行われ、檜皮葺であった屋根が銅板葺に改められました。また、近辺は北に浅間通(現在の大須観音通)、南に仁王門通と商店や民家に囲まれていたため、防火壁がつくられました。
この時、整備された防火壁の活躍もあり、大須のほとんどの建物が焼失した中、戦災を免れることとなりました。
したがって、現在も江戸時代に尾張藩主によって守られてきた姿を残していると言えます。
那古野山古墳の墳丘を利用してつくられた浪越山
大須に残る那古野山古墳
元治二(1865)年、那古野山古墳から須恵器(有蓋脚付短頸壺)が出土しました。これによって、この山が古墳であることが知られるようになったとされています。
この古墳は、5世紀中頃に築かれた前方後円墳と考えられており、現在は直径12メートル、高さ3メートルの後円部だけが残っています。
中世以降に古墳の墳丘を利用して富士塚がつくられた?
富士浅間神社は、明応四(1495)年に富士山本宮浅間大社から勧請されたと伝えられています。つまり、少なくとも15世紀末には、この地で富士山信仰が行われていたことになります。
そして、平成の発掘調査によって、現在の墳丘には中世以降に盛られた土が多く含まれていることが確認されており、中世に古墳の墳丘を改変・盛土して富士山を模したような形式となったと考えられています。なお、この時に富士塚としての役割を期待して盛土が行われたのかはわかっていません。
ここまでを簡単にまとめると、古墳として築かれていた小高い丘を利用し、さらに土を盛って富士山に見立てた山をつくり、それが「浪越山」になったと推察することができます。
古墳として築かれた丘が、15世紀以降の富士山信仰の中で新たな意味を持つようになり、やがて富士塚として利用されるようになったのです。
江戸時代は行楽の場でもあった浪越山
『尾張名所図会』には、清寿院の後園に小山があり、その周辺には植木屋や芝居、見世物小屋などがあったことが記されています。
江戸時代の浪越山周辺は、単に信仰のためだけの場所ではなく、人々が訪れ、さまざまな楽しみを求めて集まる場所でもあったようです。
現在では公園として整備され、当時の「浪越山」の姿を見ることはできません。しかし、その場所には、古墳、富士塚、そして富士山信仰という、異なる時代の歴史が重なっています。
富士浅間神社周辺では、一つの場所に、いくつもの時代が重なっている歴史に出会うことができます。
明治時代は名古屋市最初の公園「浪越公園」となった
明治12(1879)年に清寿院跡地は浪越公園として整備されました。浪越公園は名古屋で最初の公園として知られ、浪越山や柳下水、池などを備えた景勝地として親しまれました。
しかし、明治42(1909)年に鶴舞公園が整備されることになると、浪越公園は廃園を迎えます。
明治43(1910)年には古墳が残る山の部分だけが名古屋市へ譲渡され、大正3(1914)年に現在の那古野山公園として開園しました。
浪越山の庭石は鶴舞公園へ移された
浪越山が姿を変える中で、庭園も大きく改変されました。
『富士淺間神社誌』によると、現在の大須三丁目の総見寺の境内地を利用して愛知県商品陳列館を改築するに伴い、浪越山にあった庭石は陳列館の庭園用として持ち去られてしまいました。
また、名古屋城にあった「日本三名茶席」の一つである猿面茶席を昭和4(1929)年に鶴舞公園に移築する際に、茶屋の周囲を整えるために石が使われたと記されています。
徳川家茂や尾張徳川家も飲んだ名古屋三名水の一つ「柳下水」
富士浅間神社の周辺には、かつて「柳下水(りゅうかすい)」と呼ばれる湧水がありました。
その名のとおり、柳の木の下から水が湧き出ていたことが名前の由来とされ、名古屋三名水の一つにも数えられていたといわれています。
この水は良質な水として知られ、第12代将軍となる徳川家茂が名古屋に泊まった際に、柳下水を飲んだと伝わっています。
尾張藩主も飲料水として利用しており、維持管理のための費用を負担していたともいわれています。
また、柳下水の水は昭和中期頃までは生活用水として使われていたとのことです。
なお、名称の由来となった柳の木は大正8(1919)年に枯れてしまいました。
平成終わりごろまでは那古野山古墳の前に喫茶店があり、商店街側の角に柳下水の井戸が残されていましたが、再開発に伴い撤去され、現在はモニュメントとして那古野山公園内に移設されています。
大須の街を歩いていると、現在の街並みの下に、かつての地形や自然、そして人々の暮らしが重なっていることに気づかされます。

神職として伝えたい富士浅間神社の魅力
富士浅間神社は「富士山の神社」というだけではありません。
この場所には、
- 富士山信仰。
- 古墳を利用した富士塚。
- 修験道と神仏習合。
- 尾張徳川家の崇敬
- 名古屋三名水。
という、千年以上にわたる歴史が重なっています。