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【宮中三殿とは】皇居内の賢所・皇霊殿・神殿で祀られる神様やそれぞれの意味・歴史について解説 

皇居には賢所・皇霊殿・神殿からなる宮中三殿があり、ほとんどの宮中祭祀はここで行われています。

今回はそれぞれの歴史や内容について紹介していきます。

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宮中三殿とは皇居内で宮中祭祀を行う賢所・皇霊殿・神殿の総称

宮中三殿とは皇居内で宮中祭祀を行う場所で、賢所・皇霊殿・神殿で構成されています。まずは、それぞれの簡単な説明をしていきます。

賢所かしこどころ:八咫鏡の形代を奉安し、天照大御神を祀る

皇霊殿こうれいでん:歴代天皇・皇族の御霊を祀る

神殿しんでん:天神地祇(天つ神・国つ神のすべての神)を祀る

以上が宮中三殿のそれぞれの簡単な説明です。

宮中三殿は三殿が南を向いて横一列に並んでおり、中央が賢所、左が皇霊殿、右が神殿でこれらは廊下で結ばれています。この中でも賢所は他より1尺高く大きい造りになっており、天皇に仕える女官である「内侍」が奉仕したことから内侍所ないしどころとも呼ばれます。

このほかにも宮中三殿には神嘉殿、神楽舎、綾綺殿、奏楽舎、帳舎が付属しており、宮内庁ではこれらを合わせて「賢所(けんしょ)」と呼んでいます。

神嘉殿:新嘗祭を行う御殿。普段は神は不在で新嘗祭の時のみ神をお呼びする。

綾綺殿:祭典の際に、衣装を整えるための御殿。

幄舎:列席者が参列する。

御饌殿:神々に供える神饌をつくる。

皇居内にある宮中三殿の中央に位置する賢所では八咫鏡を御霊代とする天照大御神を祀る

賢所では八咫鏡の形代を御霊代とする天照大御神を祀っています。なぜ賢所で天照大御神をお祀りしているのかはこちらの三種の神器について述べたページで詳しく紹介していますが、ここでも簡単に述べておきます。

もともと天孫降臨において「地上世界では八咫鏡を天照大御神を見るように同じ殿内で祀りなさい」という神勅が下されました。しかし、第10代崇神天皇の御代に疫病の流行や自然災害の頻発し、これは天照大御神の霊力が強すぎるからだと考えられ、宮中を出ることになりました。第11代垂仁天皇の御代には倭姫命によって天照大御神の御鎮まりになる地が伊勢に定められ、神勅を守るため八咫鏡の形代をつくり宮中に収めました。これが皇居内で八咫鏡の形代を御霊代とする天照大御神をお祀りしている理由です。

 

八咫鏡の形代が宮中に奉安されてから平安時代初期までは天皇の生活の場でお祀りすることは畏れ多いとして温明殿にて祀られ、中世以降は春輿殿などでお祀りされてきました。

明治時代になり東京に都が遷されると皇居山里の内庭に奉斎されました。しかし、明治6年に皇居が火災に遭ったことでその翌日に赤坂仮御所内の中島茶屋に、更に一週間の後には仮殿を設けて遷座、その半年後には行宮に遷され、明治12年には行宮内の新殿に遷座されました。明治21年になると新たな天皇の御住まいとしてのいわゆる明治宮殿が完成し、その翌年に皇居内の現在地に新殿を建ててそこで祀られるようになります。以降、修造や戦中を除いて現在と同様の地にてお祀りされています。

八咫鏡の形代が現在地に奉安されてから賢所を含む宮中三殿が現在の形になるまでには紆余曲折ありましたが、詳しくは以下の皇霊殿・神殿の段に残して、この段落では明治以降の八咫鏡の形代の奉安場所の変遷をまとめておきます。

明治2年3月     東京への遷都に際して皇居山里の内庭へ

明治6年5月6日   皇居の火災に際して赤坂仮御所の中島御茶屋へ

明治6年5月17日  中島御茶屋の南庭に新しく設けた殿内へ

明治6年11月17日 行宮へ

明治12年6月24日 行宮内に新しく設けた殿内へ

明治22年1月9日  前年に完成していた明治宮殿内の新殿へ

 

皇霊殿とは歴代天皇と皇后・皇妃・皇親を祀る場所。皇族は明治10年に合祀され、御霊は一時八咫鏡と共に祀られた。

皇霊殿では歴代の天皇、皇后、皇妃、皇親の御霊を奉斎しています。

中世以降、歴代天皇は京都御所の黒戸という部屋で仏教式で祀られていました。しかし、明治時代になると神道式で祀ることがふさわしいとされたことから霊牌・仏像類は京都の泉涌寺に移され、明治2年には神祇官の神殿にて八百万神とともに祀られるようになりました。さらに、その半年後には仮の神殿を造営し中央に八神、東に天神地祇、西に歴代天皇をお祀りしました。明治4年になると、歴代天皇の御霊をこれまでの神殿から宮中の賢所に遷して天照大御神とともに祀り、明治10年には皇后、皇妃、皇親の御霊を合祀しました。また、先述のように皇居に火災が遭ったため、赤坂仮御所内中島御茶屋に遷座されるなど八咫鏡の形代と同様に遷座を繰り返します。

 

皇居宮中三殿のひとつで天神地祇を祀る神殿の歴史

神殿では八百万神を奉斎しています。

古代より宮中では天神地祇を祀っており、『古語拾遺』によると神武天皇が、高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神を祀ったのが起源とされています。神祇官では八神殿が設けられて祭祀が行われ、八神殿は『延喜式』に記される神社の筆頭として扱われていました。

中世になると八神殿は中絶し、江戸時代には吉田家や白川家が独自に八神を祀るようになりました。明治2年になると神祇官に神殿が設けられ、前段落で述べたように歴代天皇の御霊と共に八神だけでなく天神地祇が奉斎されるようになります。その半年後には仮の神殿の東方にて天神地祇を祀ることになりました。明治5年9月には吉田家や白川家などで祀られていた八神を宮中に新しく設けた八神殿に遷し、さらに11月にはここに天神地祇を合祀して名称を八神殿から神殿に改められます。以降は賢所や皇霊殿の段で述べたのと同様です。

このように神殿は古代の八神殿を参考にしていることは窺えるものの、その内容は古代と明治以降では大きく異なるものになっています。

 

神嘉殿とは新嘗祭でのみ用いられる場所で、平安宮の大内裏中和院が基となっている

神嘉殿とは新嘗祭を行う御殿です。

こちらは宮中三殿の西方に位置し、中央の正殿に東西の隔殿が付属しています。正殿とは新嘗祭において神をお招きする神座であり、西の隔殿には天皇や皇太子の座が、東の隔殿には掌典長や掌典らの座が設けられています。

平安時代では大内裏中和院の正殿が神嘉殿と呼称されていましたが、時代の変遷と共に廃絶され江戸時代の光格天皇の御代に再興され、現在の神嘉殿は明治22年の新嘗祭より用いられたものです。

 

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