豆知識

伊勢神宮の創祀・創建年代は文武天皇2年(698年)か考察・反証の紹介

伊勢の神宮の創祀について神宮側は讖緯説を用いて紀元前4年としていますが創祀の時期を正確に判定するための詳しい情報は記述されておらず、実際の創建年代は諸説あるとされています。

数多ある説の中でも有力なものとしては文武天皇2年(697年)とする説がありますが、これについては賛否両論あり明確な回答は得られていません。

今回は神宮の創祀が文武天皇の御代とされる理由とその反証を紹介していきます。

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神宮の創祀・創建年代が文武天皇二年とされる理由は『続日本紀』等の「多気大神宮」の記述にある

神宮の創祀は文武天皇の御代というのが現在の多数説となっていますが、まずはその理由として挙げられている資料として『続日本紀』『類聚国史』『日本紀略』を紹介します。

『続日本紀』巻第一

乙卯。遷多氣大神宮于度會郡。

『類聚国史』巻第三 神祇三 伊勢太神

文武天皇二年十二月乙卯。遷多氣太神宮于度會郡。

『日本紀略』文武天皇二年

十二月乙卯。遷多氣太神宮于度會郡。

以上が文武天皇の御代の伊勢の神宮に関係している記述です。ここから読み取れるのは多気にある大神宮を度会郡に遷したということです。

『倭姫命世記』では第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命が大河の瀧原の国という美しい場所に天照大御神をお祀りする社を建てたというされており、『続日本紀』『類聚国史』『日本紀略』でいう多気大神宮とは瀧原にあった元宮を指すと考えられます。

したがって神宮はもともと瀧原に鎮座しており、文武天皇二年に度会郡に遷されたということになります。

文武天皇二年が創祀とする説への反証

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ここまでで説明してきた理由により文武天皇の御代が創祀とされていますが この説には多くの反対意見があります。今回はその反証となる事項をいくつか紹介します。

多気大神宮とは斎宮を指し、これは当耆皇女によって度会郡に移された

文武天皇二年に神宮が現在の地に遷されたとする説に反論するためにはまず文武天皇二年に度会郡に遷された「多気大神宮」がなにを指しているのか検討しなければなりません。

斎宮という言葉は神宮自体を指すこともあれば神宮に奉仕する斎王が籠る宮を指すこともありますので、多気大神宮は多気にある神宮か多気にある斎王の籠る宮かを明らかにする必要があります。前の段落で紹介した神宮の創建が文武天皇2年とする説では前者の立場を採用していますが、ここでは後者の立場について紹介します。

文武天皇の時代以前に神宮が創建されていたということを示すためには多気大神宮というのは斎宮(斎王の御所)を指しているという説をとることになります。多気の斎宮とは現在の多気郡明和町を指しているというのが一般的で実際に東西1.5kmにわたる大きな遺構が発掘されており現在はここに斎宮歴史博物館となっています。明和町は現在の神宮から15キロほど離れた位置にあり、神宮での奉仕のためにはあまりに遠すぎるということで度会郡=現在の伊勢市駅あたりに遷したと言われています。

『続日本紀』に「伊勢斎宮に侍らしむ」と明記されている最初の皇女である当耆皇女が斎宮を遷したという記述がされていることから編者が斎宮の意味を誤って多気”大神宮”としたのではないかと考えられます。

 

『万葉集』巻2 199番 高市皇子と度会の斎宮

『万葉集』巻二・一九九番 持統天皇十年(696年)

高市皇子命の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿のつくる歌一首

~まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふ間に 渡會の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして・・・

こちらは『万葉集』の記述です。

高市皇子とは天武天皇の皇子で天武天皇の崩御後は太政大臣として持統天皇を助けた人物です。

「渡會の斎きの宮ゆ」という記述がありますが これが神宮を指すのではないかと主張されています。様々な文献で斎宮という文言が用いられていますが、これは「さいぐう」と読むか「いつきのみや/いはいのみや」と読むかによって指すものがそれぞれ異なっており前者は神宮自体、後者は神宮に奉仕する斎王の御所を表します。

先ほど紹介した『続日本紀』『類聚国史』『日本紀略』の記述を前提としたうえで、前者の立場をとるならば文武天皇二年(698年)の2年前にあたる持統天皇十年(696年)には度会郡に神宮があったと考えることができます。

 

『大神宮諸雑事記』『止由気宮儀式帳』と伊勢神宮の外宮の創祀

豊受大神宮(外宮)の創祀については『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』、『大神宮諸雑事記』に記されています。

このうち年号についての記述があるのは『大神宮諸雑事記』で以下のような記述がされています。

『大神宮諸雑事記』

雄略天皇条

即位二十一年丁巳 当唐大和元年也、而天照坐伊勢太神宮乃御託宣、我食津神波坐丹後国与謝郡真井原須、早奉迎彼神、可奉令調備我朝夕饌物也、託宣賜既了、仍従真井原奉迎天、伊勢国度会郡沼木郷山田原宮仁奉鎮給倍利、今号豊受太神宮是也。(中略)

二十二年戊午七月七日、豊受神宮於波被奉迎也。

以上のように雄略天皇21年に天照大御神が食事を司る神として丹後国に坐す豊受大御神を迎えることを望み、翌年に豊受大御神が迎えられたとされています。

雄略天皇の御代は現在の歴史学では5世紀中ごろと比定されているため、神宮創建が文武天皇2年だとする説によれば外宮の方が内宮よりも早く創建されていることになってしまいその他の資料と矛盾が生じます。

 

以上が文武天皇2年に神宮が創建されたとされる説の紹介とその反証です。

 

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