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【国家神道に関する誤解】明治時代の日本における祭政一致と政教分離の内容と天皇の在り方をわかりやすく解説

長年にわたる武士による統理の時代が終わり、明治時代になると近代化に向けて新しい政治体制の確立が急がれました。その中で中核を成したのは天皇の存在であり、天皇中心の国家運営が進められることとなります。

この明治時代の体制について戦後まもなくのGHQによる統治によって、国家神道という言葉を用いて批判するものが現れ、社会的にも明治以降の政策を批判する風潮があります。

今回はこの国家神道に関する印象が誤解であることを政治と神社祭祀の関係に着目しながら紹介していきます。

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祭政一致の布告・大教宣布の詔に始まる明治時代における神社と国家の結びつきの歴史

江戸時代末期から尊皇運動が高まっており、明治政府は我が国と皇室の関係に注目して天皇中心の国づくりを目指しました。

そのために天武・持統天皇に始まる神祇祭祀と政治が一体であった時代を参考にして天皇を神祇祭祀の長とした王政復古の指針を固めていったのですが、この方針には年月の流れと共に変化が現れていき、国家と神社との関りにも方針の変更がありました。

この段落では新政府誕生の頃の祭政一致の布告から方針の変更があった頃までの歴史を確認します。

 

祭政一致の布告に始まる国家における神社管理の歴史

明治元年に祭政一致の布告が行われ、先述のように天武・持統天皇の律令国家の時代を参考にして天皇中心の国家づくりを目指しました。

その第一段階として神祇官を再興し翌年には太政官の上に置かれましたが、明治4年には神祇官を廃し神祇省に格下げされ、さらに明治5年には神祇省も廃され教部省が新しく置かれます

教部省では祭政一致の具現化、国民の精神的一致を目指し、明治3年に発布されていた大教宣布の詔をもとに大教宣布運動を本格化させます。この運動では東京に大教院、全国に中教院・小教院を設置し、そこに宣教師を置いて三条の教憲(教則)をもとに活動が行われました。

三条の教憲の内容は以下の通りです。

第一条 敬神愛国の旨を体すべきこと

第二条 天理の人道を明にすべきこと

第三条 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと

この内容を確認いただければ明治政府の目指した国及び国民の在り方が理解できると思います。

宣教師は明治5年に教導職に改められ大教正・権大教正・中教正・権中教正・少教正・権少教正・大講義・権大講義・中講義・権中講義・少講義・権少講義・訓導・権訓導という14の等級を置き、教導職としては神職の他に地方公務員や僧侶、俳優など幅広い人材が登用されました。

 

大教宣布運動の方針転換の契機となった神道事務局内での伊勢派・出雲派による祭神論争

明治10年になると教部省を廃して内務省内に社寺局を新設、府県社以下の神職の国家における等級を排して寺院の住職と同様の身分とされるなど官制における神社の格下げは続いていましたが、明治13年になるとこれまでの方針が急激に変化する契機となる問題が生じました。それは神道事務局設置に際しての祭神論争です。

神道事務局とは神道諸派を結集した団体のことで、事務局内に設ける神殿にはどの神を祀るべきかということで対立が起こります。主要派閥となったのは伊勢派と出雲派で、伊勢派は造化三神と天照大御神を祀るべきだとし、出雲派は造化三神と天照大御神に加えて大国主神を祀るべきであると主張しました。

この祭神を如何にするかという問題は信仰的なものであるため決着がつかないでいました。そこで明治14年に天皇が神道事務局の神殿は宮中三殿の遙拝所とするとの御裁断を下されたのですが、この出来事を契機として信仰に関する事項に政治権力が関わるべきではないという機運が高まっていきました。

 

明治15年になると神官が教導職として活動することが禁止されます。当時、神社が国家の宗祀とされており、神職は公務員的な地位にありました。その中でも官国幣社という国または地方公共団体により幣帛が奉られる神社の神職が国家の方針を教え導くことは相応しくないと考えられ、さらに17年には府県社以下の神職も教導職として活動することは禁止されました。

加えて明治15年には官国幣社の神職が神葬祭に関与することは禁止されていました。これは神社の祭祀を非宗教とするのであれば葬儀という宗教色の強いものに携わることは不適当ではないかという仏教界からの養成によるところも大きかったと言えます。これから後、神社及び神職の待遇の悪化は相次ぎ、明治20年には官国幣社の神官の待遇引き下げ等が行われました。

 

明治政府の基本とした祭政一致の原則は政教一致とは異なる概念

天武・持統天皇による律令体制の時代には政治と祭祀は一体のものとされていました。明治政府は新しい国造りに際して天皇の存在を国家の柱とし、祭政一致の原則に基づいた国家運営を目指しました。

ここまでで明治政府が政治と神社の関係を徐々に切り離していったということを確認してきましたが、明治22年に公布された大日本憲法には天皇が統治権を有する元首であることが記載され、国家の元首たる天皇に政治と祭祀の決定権が属すると規定され祭政一致の原則を推進していたものの、実際には政治の機関と祭祀の機関は独立して存在していたことを踏まえると実質的には祭祀と政治が影響を与えあっていたとは言い難い状況でありました。

したがって、明治期の日本における祭祀と政治のかかわりは限定的であり、むしろ政治と宗教が混同されないように注意されていたといえ、祭政一致と政教分離は両立される事項であると言えます。

 

神社非宗教論について「明治時代において神道は宗教的なものであるが神社は宗教施設ではない」

前段では政治の機関と祭祀の機関の関わりから祭政一致の原則の実情を確認しましたが、異なる視点からも明治時代の体制は政教一致ではないということを説明することができます。

それが神道宗教神社宗教論というものです。この考え方は現代における国家と神道の関わりについても応用することができる点ですので重要な説明と言えます。

神道宗教神社宗教論というのは文字通り、神道は宗教的なものであって、神社は宗教的なものではないとする主張です。現代においては神道というものを実践する施設が神社であるとの認識を持っている方が多くいらっしゃいますが、明治時代においては神社で行っている祭祀は古代から仏教や儒教、道教などの伝来後も変わらず伝統的に行われてきているものであって宗教というよりも習俗のようなものである一方、神道は祭祀を宗教的または哲学的な教説を用いて解釈したものであると考えていました。これは神道という言葉が近世に入るまでは定着していなかったこと、明治時代に入って独自の教説を持った派閥は神道十三派として独立させられた点からも分かります。

さらに前段でも述べた通り、国家の指針を教え導く教導職には神職に限らず幅広い職種の人物が同じ教導職としての役割を果たしており、この事実からも神社における祭祀を宗教ではなく、国民の統一的な道義・道徳とみなしていたことが理解できます。

以上を踏まえると、祭祀そのものを崇敬するという点では国民的一致が存在しており、神社の祭祀は日本国民であれば当然に畏敬すべき国民精神の源泉と言える、したがって、国家として神社を公に祀ることは当然であるということが言えるでしょう。

 

 

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