今回は皇室の警備についてわかりやすく説明していくね!!
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皇室警察の歴史
明治初期 | 御親兵 |
1872年 | 近衛兵 |
所属 | 組織 | |
1881年 | 宮内省 | 門部 |
1886年 | 宮内省 主殿寮 | 皇宮警察署 |
1907年 | 宮内省 主殿寮 | 皇居警察部 |
1921年 | 大臣官房 | 皇居警察部 |
1945年 | 宮内省 禁衛府 | 禁衛府皇宮警察部 |
1946年 | 宮内省 | 皇宮警察署 |
1947年 | 内務省 | 警察庁皇宮警察部 |
1949年 | 国警の外局 | 皇居警察本部 |
1954年以降 | 警察庁の附属機関 | 皇居警察本部 |
皇居警察の黎明期 ~御親兵と近衛兵~
明治になり江戸城を宮城(今でいう皇居)に定めた際、明治政府は政府直属の軍を有しておらず、薩摩藩・長州藩・土佐藩などから約1万人を集め「御親兵」を創設しました。
御親兵は国軍としての機能も果たしており この軍事力を用いて廃藩置県を強行しましたが、1872年に徴兵令が出された際に本来の業務である皇居の警護をメインとし、のちに西郷隆盛を中心とした「近衛兵」に改組されました。
1874年になると征韓論(朝鮮侵略論)を唱える西郷隆盛は武士の特権を奪う明治政府の政策に不満を覚え、政府からの脱退し、これを機に多くの兵が近衛兵を脱退しました。
1877年には西郷隆盛が旧薩摩藩士を率いて明治政府軍である近衛兵と戦いましたが、結果は明治政府側の勝利に終わりました(西南戦争)。
勝利した明治政府でしたが、西南戦争の直後に近衛兵が西南戦争の恩賞に不満を持った近衛兵砲兵隊が天皇の仮皇居である赤坂離宮で反乱を起こした(竹橋事件)をきっかけに近衛兵とは別に、皇居警備を担当する「門部」という組織を創設しました。
1886年になると門部は「皇居警察署」に改編され、宮内省の「主殿寮」という組織に所属することになりました。
次に皇居警察署は「皇居警察部」に改称され、1932年に犬養毅首相が殺害される5・15事件を機に皇居警察官は拳銃を携帯することが許されるようになりました。
戦後の警察組織改編
1945年にGHQは皇居警察部と大日本帝国近衛師団を統合して禁衛府を創設しました。
1947年には管轄が宮内省から内務省直属の警視庁(国直属の警視庁)に移され「警視庁皇居警察部」となりました。
官名は「皇宮護衛官」に改められます。
この時、東京都には内務省が直接管理する首都警察としての「警視庁」が置かれていました。
これについて、1948年にGHQが中央集権的な体制を見直すように指示し、人口5000人以上の町村に置かれる独立した「自治体警察(管理は市民から選ばれた公安委員会)」とそれ未満の町村に置かれる内務省直属の「国家地方警察本部」が統括する「国警」に分け地方分権化を目指しましたが、依然として国警は強い力を有したままでした。
今度は、国家地方警察本部に所属し「皇宮警察府」、同年に「皇居警察局」となり、皇宮護衛官は特別司法警察職員となりました。
メモ
特別司法警察職員とは、警察官(一般司法警察職員)ではないが操作を行うことができる公務員のことで、警察官が扱えないような専門的な分野を担当する。
1949年には国家地方警察本部の外局として独立し「皇居警察本部」に改称しました。
1954年には警察法が施行されて自治体警察と国警が統合され、現在のように警察庁の下に都道府県警察本部(東京は警視庁)が置かれるようになってからは、「皇居警察本部」は警察庁の附属機関となりました。
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現在の皇宮警察の組織
先ほど述べたように皇居警察本部は警察庁の附属機関として設置されています。
皇居警察本部は2部10課、そして4つの護衛署および皇宮警察学校で構成されています。
4つの護衛署とは坂下護衛署・吹上護衛署・赤坂護衛署・京都護衛署のことで、4護衛署と警備部が天皇皇后両陛下・皇族各殿下の護衛や各御所および正倉院の警備を担当しています。
皇宮護衛官になるには
皇居護衛官になるには皇宮警察学校に通う必要があります。
皇宮護衛官採用試験に合格して、皇居の敷地内の独自の警察学校である「皇宮警察学校」に通わなければなりません。
採用試験は筆記試験の他にも面接や体力テストもあるようです。