伊勢の神宮の創祀について神宮側は讖緯説を用いて紀元前4年としていますが創祀の時期を正確に判定するための詳しい情報は記述されておらず、実際の創建年代は不明とされています。
今回は田中卓氏と岡田登氏が主張している神宮の創祀を垂仁天皇の丁巳の年(297年)とする説を紹介していきます。
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目次
『日本書紀』からみる神宮の創祀・創建は「垂仁天皇26年丁巳の年冬十月甲子」
『日本書紀』には神宮の創祀について記述がされていますので、まずはこちらをご覧ください。
『日本書紀』垂仁天皇26年
神の誨の随に、丁巳年冬十月の甲子を取りて伊勢国の渡遇宮に遷しまつる。
このように『日本書紀』の記述を見れば垂仁天皇26年の丁巳の年に神宮が創建されたということが分かります。
ここで垂仁天皇の丁巳の年とは西暦でいうと何年にあたるのかが問題になります。
伊勢神宮の公式見解では讖緯説を用いたうえで神宮の創祀は垂仁天皇の御代(紀元前4年)とする
伊勢神宮は内宮は2000年の歴史を持つとしていますが、これは讖緯説を採用したうえでの計算で、この方法によると垂仁天皇26年は紀元前4年ということになります。
讖緯説と今後登場する十干十二支についての詳しい説明はこちらのページでしておりますので参照しながら読み進めることをお勧めしますが簡単に説明すると、讖緯説とはある年限ごとに革命が起きるとする古代中国の思想であり、日本書紀に記載されている年代は辛亥革命説に立ったうえで紀元前660年を神武天皇即位の年としているものであるため、年代について正確な情報を示しているとは言えません。讖緯説は対外的な関係を意識して中国の思想に合わせて無理やり用いられたものであり、『日本書紀』の上古の天皇に関する年代は史実に忠実な内容とは言えないとの反論が大多数を占めています。
そこで古代の王朝交代を説明するための方法である讖緯説を用いずに、『日本書紀』の史実に忠実であるだろうと考えられている十干十二支の年の記述方法や『古事記』等の神道古典から神宮の創祀すなわち垂仁天皇の御代の丁巳の年を導きだそうとするのが今回紹介する説です。
倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳から見る崇神天皇の年代
奈良県桜井市には箸墓古墳という大規模な前方後円墳があり、これは第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命の墓とされています。『日本書紀』には大物主大神の妻になった倭迹迹日百襲姫命は大物主大神の姿を見たことがなく、姿を見たいと話すと姿を見ても決して驚いてはいけないという旨を話すも蛇の姿をして現れた大物主大神に倭迹迹日百襲姫命は驚き声を上げてしまい、大神は三諸山に登ってしまわれた。これに後悔して腰を落とした際に箸が陰部を貫いた結果、倭迹迹日百襲姫命は亡くなり、箸墓古墳に葬られたという出来事があります。まずは倭迹迹日百襲姫命が箸墓古墳に葬らr田ことが確認できる記述をご覧ください。
『日本書紀』崇神天皇10年
則ち箸に陰を撞きて薨ります。乃ち大市に葬る。故、時人、其の墓を号けて箸墓と謂う。
平安時代の辞書である『和妙抄』には「大和国城上郡大市、於保以知」と記されており、ここからも箸墓古墳のある大市は大和国に属していることが理解できます。
『日本書紀』によると箸墓古墳は崇神天皇の御代につくられたことがわかりますが、箸墓古墳北面の発掘調査では土器が現れ、これを炭素14年代法で年代を測定すると西暦240年~260年代にかけてつくられたということが分かります。
『古事記』や『日本書紀』、『住吉大社記』からみる崇神天皇の戊寅の年の崩御(258年)と垂仁天皇の辛未の年の崩御(311年)
『古事記』や『日本書紀』などの神道古典では天皇の崩御した年齢や十干十二支を用いた年が記載されており、考古学的な情報と組み合わせることでより正確な年代を割り出すことができます。
まずは崇神天皇についての『古事記』の記述を確認しておきます。
『古事記』崇神天皇条
天皇、御歳壱百陸拾捌歳、戊寅の年の十二月崩りましぬ。御陵は山辺道の勾の崗の上に在り。
ここでは崩御の年は戊寅ということが示されています。
先ほど紹介したように考古学の見地から崇神天皇の御代は240年~260年頃ということが明らかになっていますので、この辺りから戊寅の年を探すと258年ということになります。
次に第12代垂仁天皇崩御の記述がされている『住吉大社神代記』を確認します。
『住吉大社神代記』
活目入彦命(垂仁天皇)彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇し、五十三年辛未に崩る。
これを見ると垂仁天皇の崩御の年は崇神天皇の崩御から53年後の辛未の年であるということが分かり、崇神天皇の崩御の年と照らし合わせると垂仁天皇の崩御の年は311年ということになります。
さて、ここで一番最初で紹介した『日本書紀』が神宮の創祀を垂仁天皇の丁巳の年としている点に戻ってみます。
ここまで紹介した『古事記』や『住吉大社記』によれば垂仁天皇は258年から311年が在位期間ということが分かりますが、この中で丁巳の年はいつにあたるのかというと297年です。
このような論拠から神宮の創祀は西暦297年ということが説明されています。
垂仁天皇26年(297年)とする説への反証「297年の丁巳の年の10月には甲子の日はない」
ここまで神宮の創祀は垂仁天皇の御代であり西暦でいうと297年であるということをお話ししてきましたが、これに対するいくつかの反証もされています。
その中でも最も整合性がとれている反証としては297年の10月には甲子の日はないというものがあり、実際にこの年の10月には甲子にあたる日はありません。
これについて紀元前4年の甲子を創祀としている神宮は9月17日に行われている神嘗祭の日が甲子の日であることに注目し神嘗祭に合わせて神宮創建としており、9と10を写し間違えたのではないかと『神宮要項』で説明されています。しかしながら9月は秋であることから「冬10月」の10を9と書き損じたということは考えにくいという反論があります。
これに対して田中卓氏は外宮創祀の託宣が下りた年である雄略天皇21年の10月に甲子があることから、外宮の御遷座に関する記述が混同されて内宮の創祀とされたのではないかとしています。
また、皇學館大学で教授を務められた岡田登氏は甲子は十干の初めの「甲」と十二支の初めの「子」を合わせることで吉日であるということを表しているのではないかと説明しています。