かつて大嘗祭や新嘗祭では五節舞という踊りが披露され、その大変美しい様子は百人一首や枕草子などに記録されています。
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五節舞の歴史・起源は奈良時代の天武天皇の御代まで遡る
『続日本紀』にはこのような記述があります。
第45代聖武天皇が開いた宴で阿部内親王(後の第46代孝謙天皇)が五節舞を披露した際、右大臣の橘諸兄が上皇に対して「この舞は天武天皇の御代から続くもので、上下が和やかに、この世を安泰に治めていくには、この舞を継承していくべきであるため、皇太子に習い舞わせました」と申し上げた。
以上のことから、五節舞の起源は第40代天武天皇の御代(奈良時代)まで遡るとされており、正月や天皇のお出ましの際に披露されていたようです。
また、鎌倉時代初期に成立した『年中行事秘抄』には天武天皇が夕暮れに吉野宮で琴を弾いていると、たちまち雲が立ち込め天女が現れ袖を5回振って舞ったことが記述されており、
この時、天武天皇が詠んだ「乙女ども乙女さびすも唐玉を袂に巻きて乙女さびすも」という歌は現在の五節舞にも用いられています。
奈良時代には多くの機会に披露されていた五節舞ですが、平安時代になると新嘗祭と大嘗祭の後の豊明節会などの饗宴でのみ披露されるようになりました。
第103代土御門天皇の大嘗祭以降新嘗祭・大嘗祭は行われなくなってしまいましたが、大正以降復興され、令和の大嘗祭の際に行われた大饗の儀のほか、2018年には宮内庁式部職楽部により国立劇場で一般公演も行われました。しかし、新嘗祭後の五節舞は未だに復興されていません。
五節舞姫の選び方は五節定という審査による
五節舞ではまず宮中の大歌所という機関によって選ばれた大歌と言われる催馬楽や神楽歌が歌われ、その後は列をなし 時には行進しながら雅楽を奏す立歌が行われ、これあわせて舞が行われたとされています。
五節舞の舞姫は「五節定」という審査によって、身分の高い者が選ばれていました。しかし平安以降に身分の高い者が一般の場に姿を現すことがなくなると、その主役は身分の低い者へと移行していき、やがて貴族がそれぞれ舞姫と衣装を選び、美しさを競うものとして行われるようになっていきます。
百人一首には
天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ
現代語訳:空吹く風よ、雲の中にあるという道を吹いて閉じてくれないか。乙女たちの姿を、しばらくここに引き留めておきたい。
という歌が残されています。
大正に復興されてからは現在は旧華族の中から5人が選ばれ、宮内省学部が振り付けや稽古を行い、大嘗祭後の饗宴の儀で披露されています。