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伊勢神宮:式年遷宮の意味・歴史と中断の理由「こんなに違う!中絶前と後の違い」

伊勢の神宮ではたくさんのお祭りが行われており、恒例祭・臨時祭・遷宮祭の3つに分類されます。今回は式年遷宮について詳しく解説していきます。

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式年遷宮とは伊勢神宮 最大のお祭り

伊勢の神宮では20年毎に最も大きなお祭りのひとつである式年遷宮が執り行われます。

式年遷宮とは内宮と外宮の両正宮の他、別宮・東宝殿・瑞垣、鳥居などを造り変え,大御神にお遷りいただくもので、

式年とは一定の年限のこと

遷宮とは宮を遷すこと

を指します。

内宮・外宮の正宮には東西に同じ広さの敷地があり、そこに新しい社殿がつくられるのです。

神宮が「古くて新しい」社殿と言われているのは社殿を同じ形のまま新しく造り変える式年遷宮が行われているからであり、修繕を繰り返すことで維持する国内や海外の遺跡とは異なる方法をとっています。

 

式年遷宮が行われるのにはこのような理由がある

式年遷宮が20年に一度行われる理由にはこのような説が挙げられます。

①檜と萱が美しい姿を保つことのできる年数が20年だから

②宮大工などの伝統技術伝承が可能な年限が20年だから

③遷宮を行うための費用に充てられる稲の貯蔵年限を20年とする法令があったから

など他にもたくさんあります。

たむ
どれか1つが正しいというわけではないかもしれませんね。

 

式年遷宮の歴史

式年遷宮の起源(天武天皇・持統天皇期)

第40代天武天皇がこの制度をお考えになり、第41代持統天皇の御代に式年遷宮は始められました。それ以前は決まった年限はではなく破損が起こるたびに修繕が行われていたようです。

 

ではなぜ式年遷宮は始められたのでしょうか。時代背景に着目して話を進めていきます。

天武天皇は別称を大海人皇子といい、天武天皇の弟にあたります。天武天皇が崩御すると大海人皇子は吉野で挙兵し、天智天皇の子である大友皇子との後継ぎ争い壬申の乱が勃発します。

このとき挙兵した大海人皇子は伊勢の天照大神を遙拝し戦勝祈願を行ったと言われており神宮への崇敬が篤かったと考えられます。

壬申の乱で勝利した大海人皇子は即位し、大化の改新方進められてきた天皇を中心とした中央集権国家の確立を目指します。全国を支配していく方法として皇室の権威を高めることを目指しますが、その一環として以前から崇敬していた伊勢の神宮の式年遷宮を考えたのです。

またこの時、外宮内宮ともに独占していた度会氏に対して外宮の禰宜の世襲のみを認め、内宮には新たに荒木田氏を任命し禰宜を世襲させることにしました。これにより神宮に対して朝廷の力が及びやすくなりました。

天武天皇の後を継いだ持統天皇も先帝からの方針を支持し式年遷宮を開始していきます。

 

なぜ式年遷宮は中絶されたか

中絶されたのは室町時代で、応仁の乱の勃発など日本は動乱期にあったと言ったらそれだけで終わってしまうので、時代背景や古代から中世の式年遷宮の制度を含めてもう少し説明してみます。

つい先ほども述べたように、式年遷宮の制度を定めたのは天武天皇ですから年代でいうと大体7世紀末、奈良時代のことです。

平安時代までは朝廷が政治を動かしており、式年遷宮にかかる経費はすべて公費で賄われていました。このころは荘園と呼ばれる私有地の増加により税を十分に徴収できずにいましたが、役夫工米という臨時の課税方法を定め国司を中心に全国から公費をかき集めていました。伊勢神宮には古来から私幣禁断の原則という天皇以外からの個人的な奉幣を禁じる原則が守られてきましたが、役夫工米により一般人からの神宮への関心が高まり、平安末期頃から隣国のみならず全国の人々が参拝に訪れるようになりました。

 

平安時代が終わると鎌倉時代になり初めての武家政権が発足します。鎌倉幕府をつくったのは源頼朝ですが、源頼朝の母方は熱田神宮の宮司を務める家系の出身であった影響からか関東では鶴岡八幡宮・箱根神社・伊豆山神社などを崇敬しており寺社信仰の篤い人物でした。もちろん伊勢の神宮への信仰も篤く、神宮への寄進にも積極的でした。

源頼朝はこれまで朝廷が担ってきた式年遷宮を引き継ぎます。鎌倉幕府は堅固な基盤を有しており各国に派遣した守護地頭に引き続き役夫工米の徴収を行っていたのです。

年号が承久となってからは貨幣が流通し始めたことで、役夫工米の支払いは米から銭へと変わりました。

 

鎌倉時代にも順調に行われていた式年遷宮ですが、幕府が倒れ室町幕府が誕生するも徐々に力が弱まっていき、資金を用意することができなくなっていったのです。

これが式年遷宮が室町時代に中絶した理由です。中絶している時期にも内宮は4回、外宮は18回の仮遷宮が行われましたが、雨風によって廃れた部分を修繕する程度で完全な遷宮ではありませんでした。

 

中絶以降の式年遷宮~戦国時代から江戸時代~

室町時代になり中絶してから120年ほど経ったころ、慶光院という臨済宗の寺院の守悦上人が宇治橋(内宮の神域との間に架かる橋)を造営しました。つづいて清順上人も宇治橋の造営、加えて全国の大名に対して式年遷宮の実施を働きかけました。これを受けて清順上人の死後には織田信長や豊臣秀吉らが寄進を行い124年ぶりに内宮の遷宮が行われたのです。

この時、式年遷宮は役夫工米方式から勧請方式、いわゆる寄付方式への変更がなされました。

 

江戸時代になっても慶光院は式年遷宮に貢献しており、幕府としても公費で2万9千石を寄進していました。しかし、ある時幕府は慶光院の式年遷宮への関与を停止させます。

なぜこのようなことになったのかというと、そもそも神宮というのは仏教との関わりがタブーとされており、戦国時代の例は例外中の例外でした。また、山田奉行という伊勢の守護や神宮の管理・式年遷宮の担当する役人の制度が整ったことも要因の1つでしょう。

こんなにも違う!中絶前と後の式年遷宮の違い

 中絶前
中絶後
順序内宮の遷宮を終えた1,2年後に外宮の遷宮内宮の数日後の外宮の遷宮
年限満19年
数え年で20年
満20年
数え年で21年
資金調達役夫工米方式勧請方式

いくつか先ほど説明した内容もありますが、もう一度簡潔に説明しておきます。

①まず順序について

中絶前は内宮が外宮に優先して遷宮が行われました。

しかし、天正の遷宮からは年の前後はなくなりました。ただし、同年に行うとなると結局どちらから行うのか争いが生まれます。

そこで中絶前のしきたりから内宮の数日後に外宮の遷宮を行うということになりました。

 

②年限について

中絶前は満19年、数え年では20年で行っていました。

中絶後は満20年、数え年では21年で行っていました。

余談ですが満年齢というのが現在一般的に用いられる方式で、生まれた瞬間から初めての誕生日を迎えるまでを0歳とする考え方です。

以下に中絶前と後の式年遷宮の年を貼っておきます。先ほど説明したように中絶前は内宮と外宮は異なる年に行われており、ややこしいので今回は内宮についてを掲載しました。

中絶前中絶後
886年1609年
905年1629年
924年1649年
943年1669年

式年遷宮の制度が定められた当初はまだ一定の年限での遷宮は行えていませんでしたが、しばらくすると19年で一回と定まってきます。

江戸時代からは20年に一度と定められましたが江戸最初の遷宮が1609年ですので、今後遷宮は十の位が偶数・一の位が9の年に行われます。

 

③資金調達方法について

これは先の段落で述べた内容ですので軽い説明に留めます。

中絶前は公費、中絶後は勧請(寄付)方式です。

 

 

 

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