豆知識

【伊勢神宮式年遷宮の御用材を伐りだす御杣山の変遷】内宮の神路山・島路山と外宮の高倉山から木曽の山々へ

伊勢の神宮では20年に社殿を新しく造営する式年遷宮が執り行われます。これまで60回以上にわたる式年遷宮の度にたくさんの材木が必要となり第一回の式年遷宮の際に定められた御杣山だけでは補いきれなくなり、これまで60回以上にわたって行われてきた式年遷宮では様々な山を御杣山としながら続いてきました。

今回は伊勢神宮の社殿を造営する際に木を伐りだす御杣山についてお話していきます。

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式年遷宮に向けて社殿を新しく造営する際に木を伐りだす山を御杣山(読み方は「みそまやま」)という

神宮の社殿を造営するにあたって御用材を伐りだす山を御杣山みそまやまといいます。御杣山の杣という文字は普段見慣れない文字のため読み方に困惑する方もいらっしゃるかもしれませんが、この文字は我々が用いている中国からもたらされた漢字ととは異なり国事という日本でつくられた独自の文字であり、中国にはこの文字は存在しません。ちなみに国字はこの他に「榊」などがあります。

御杣山は伊勢神宮では天皇が認めた清浄な山のみが選ばれており、全国どこの材木を使ってもいいというわけではありません。もともと内宮は神路山・島路山、外宮は高倉山と定められていましたが20年に一度というペースで内宮外宮の2つの正宮の他、いくつかの別宮等を新しく造り変える式年遷宮を繰り返すうちにこれらの山の材木が不足していきました。そこで宮川を上流に向かっていき御用材を調達していましたが、それでも社殿の造営のために用いられる十分に成長した木を十分に確保し続けることは困難であり、回ごとに異なる場所で御用材を伐りだすことになりました。

 

御杣山変遷の歴史 ~三河・美濃や紀州での御用材の伐りだし~

ここからは第1回式年遷宮から中世までの御杣山の変遷を紹介していきます。

 内宮外宮
第1回式年遷宮(690年、692年)神路山高倉山
第18回式年遷宮(1019年)志摩国答志郡
第28回式年遷宮(11211年)阿曽山(瀧原周辺)
第33回式年遷宮(1304年)江馬山(宮川上流)
第35回式年遷宮(1343年,1380年)三河設楽山美濃北山

このようにもともとは内宮は神路山・島路山、外宮は高倉山を御杣山としていましたが、志摩国答志郡を経由して江馬山・阿曽山と徐々に宮川の上流へ登っていきました。

第35回式年遷宮は内宮の御杣山は三河設楽山とされ初めて伊勢志摩を離れました。これは臨時の措置であり以降はまた宮川流域の山々に戻りました。外宮では現在でも檜の産地として知られている美濃国が御杣山とされ、以降数回にわたってここで御用材が伐りだされます。愛知県や岐阜県が御杣山に選ばれたのは川を用いた輸送、海を用いた伊勢の大湊までの輸送が容易だったからだと考えられます。


次に江戸時代から平成25年の第62回式年遷宮までの御杣山について変遷を紹介していきます。

 両宮
第41回式年遷宮(1585年)江馬山(宮川上流)
第46回式年遷宮(1689年)大杉山(紀州藩)
第47回式年遷宮(1709年)木曽山(尾張藩)
第51回式年遷宮(1789年)大杉山(紀州藩)
第52回式年遷宮(1809年)木曽山(尾張藩)

中世までは神宮の式年遷宮は内宮の遷座の1,2年後に行われていましたが安土桃山時代の豊臣秀吉が関与した式年遷宮以降は同一の年に行われるようになり御杣山の位置も内宮外宮で同一の場所が定められました。

第47回式年遷宮以降の御杣山は宮川上流と紀伊を離れました。これは式年遷宮に用いることのできる木が不足したという理由の他にも上流に行くにつれて川には岩が増えていき、傷のない状態で木を運ぶことが困難になったということも理由として挙げられます。

また上記の表で注目すべきは御杣山の属する国は尾張・紀伊と御三家の領地に限られているという点です。神宮は朝廷だけでなく江戸幕府にも保護され国家の一大行事として式年遷宮が行われていたことが読み取れます。

 

尾張藩による木曽での神宮式年遷宮の御用材の巧妙な植樹方法と厳しい規則「ノコギリを山に持ち込んだら斬首刑」

尾張藩は神宮の御用材を植樹し育てるという重大な役割を果たしていましたが尾張藩の植樹方法は非常に巧妙なもので、広葉樹の間にヒノキを植えるという方法がとられていました。昭和の時期には日本ではスギの木を大量に植えたことで山が痩せていき木が十分に育たなくなると共に土砂災害が頻発したという歴史がありますが、尾張藩は広葉樹とヒノキを共生させることで広葉樹の葉が落ちて肥やしとなって針葉樹の生育及び山の安全を守ったということが知られています。

また、尾張藩は御杣山の保護のために山にノコギリを持ち込むのを禁止しました。木を伐る方法と言えばノコギリや斧を用いる方法が思いつきますが、尾張藩では斧を持って山に入ることは許されていましたがノコギリを持って入ることは許されておらず、万が一無断で切った場合は斬首という大変重い刑が科せられていたのです。その理由は斧で木を伐る際には木を叩く大きな音が響くのに対してノコギリで木を伐る際には小さい音しかならないため無断で木を伐ることができてしまいます。ノコギリを用いることで神宮の式年遷宮に用いる樹木を伐られてしまうということを防ぐための規則ということです。

 

大正時代から現在にかけて行われる将来の式年遷宮に向けた伊勢神宮の植樹祭

現在、神宮は神路山と島路山を中心とした5500haもの山々を管理しており、これは伊勢市の面積の4分の1を占めており世田谷区と同じくらいの広さがあります。宮域林では対象14年ごろから植樹が始められ、現在は毎年4月に植樹祭が行われており、間伐等の管理を行いながら200年後の式年遷宮に向けて大切に育てられています。また、第62回式年遷宮では宮域林の間伐材の一部を社殿建築以外の御用材として用いましたが、これは700年ぶりの事と言われています。植樹祭で植えられるのは3年生の苗木250本ですが、この苗木は神宮の宮域林のヒノキを親としたものであり、神宮の遷宮で用いる樹木は神宮に由来する苗木から育てるということが重視されています。

大正時代から宮域林に植樹されているヒノキが遷宮で使えるようになるのは2125年の式年遷宮以降といわれています。私たちが生きている間は宮域林で育てたヒノキを用いた遷宮を見ることは叶いませんが神宮の自然が守られ式年遷宮を後世に継承するできるように神宮を守っていきたいですね。

 

 

 

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