神社では神々への信仰を表すために祭祀(祭り)が行われていますが、祭祀には作法が定められており、現代の神職は基本的に神社本庁で定められた作法に倣って祭祀を執行します。
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目次
不統一な江戸時代までの神社祭式作法と七社奉幣の再興による勅祭社の式次第
神社は神道という各地域で自然発生的に形成された習俗がまとめられた形成されたという側面があり、祭祀において江戸時代以前の神社では、一部ではその神社で古来続けられていた作法を、一部では宮中の作法に倣うという状況で、作法はそれぞれ異なっていました。また、仏教とのを距離によっても作法や式次第は大きく異なりました。
加えて、中世以降は白川流、吉田流などの流派が台頭し、祭式作法はさらに混迷を極める事となりました。
このような状況の中、延享元(1744)年に転機が訪れます。それは七社奉幣の再興です。
もともと平安時代後期には国家の重大事に際して、朝廷が二十二社の有力神社に奉幣を行っていましたが、そのうち上七社と呼ばれる神社への奉幣が江戸時代になり再興されたのです。
上七社への奉幣の際には、勅使への祓が厳重に行われており、これが勅祭社の行事に変化し、官国幣社の神社祭式にも取り入れられていき、次の段落で紹介するような明治時代以降の神社祭式の基本となりました。
王政復古の大号令「神武創業の始」を目指して定められた『官国幣社祈年祭』・『四時祭典定則』
王政復古神武創業ノ始ニ被為基諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テハ先第一神祇官御再興御造立ノ上追々諸祭奠モ可被為興儀被仰出候
明治時代になり、神武天皇による我が国の建国の精神を根本として、祭政一致の国家制度の策定が進められます。そこで、神社制度や祭式についても規定が必要となり、まずは長らく廃絶していた祈年祭を斎行するべく明治2年に『官国幣社祈年祭式』が定められます。これが明治時代における神社祭式制度の先駆けと言えます。
続いて、明治4(1871)年5月には「官社以下定額・神官職制等規則」社格が定められ、明治4年9月には『四時祭典定則』が定められます。
『四時祭典定則』では、大祭には宮中の祭祀である元始祭・神武天皇祭などを定める他、中祭として神社の祭祀である「官幣大社例祭」を定めて祭使大掌典以下を発遣、小祭としても神社の祭祀である「官幣中社式年祭」を定めて大掌典以下を発遣することとなりました。 発遣は遠隔地への発遣が困難な場合もあったことから、制定の翌年より地方官が代わって執り行うことはなりましたが、政府が神社の祭祀に関わるようになったことで、公的に定められた全国共通の祭式作法が必要となり、神社で行う祭祀の作法について定めた「官幣諸社官祭式」が定められました。しかし、定められたのは官幣社に関する祭式のみであったため、府県社以下の神社のための祭式作法の制定が待たれました。
『四時祭典定則』に基づいて明治8年に制定された『神社祭式』は「再拝拍手」の初見となる文書
そこで 、明治8(1875)年に神祇省廃止に伴い祭祀関係の事務を担当していた式部寮により『神社祭式』が出されます。
『神社祭式』は先述の『四時祭典定則』を基にして、近衛忠房や千家尊福が記した「祭儀」「祭式」という祭式書を参考にして定められました。ただし、この時も府県社以下は『神社祭式』の範囲から除かれてしまっていました。しかし、布達から数か月後に「府県社以下もこれに準拠する」とされ、ここに初めての全国一律の神社祭式が成立しました。
さて『神社祭式』では式次第を下記のように定めていました。
手水→開扉→献饌(神饌)、献饌(御幣物)→祝詞奏上→玉串拝礼
これは現在の式次第と同様であり、古来の宮中及び神社祭式が明治時代にまとめられて現在の祭式の礎となったことがわかります。
なお、祝詞奏上の部分には[再拝拍手]と記述されており、これは公式文書における再拝拍手の作法の初見と言えます。 ただし、この表記では具体的な作法が明確になっているとは言えません。他の部分についても同様に曖昧で、各流派によって異なる解釈がされていました。
そこで、 簡略な『神社祭式』の内容を補うべく、以降も神社制度の整備が進めらていきました。
明治40年の『神社祭式行事作法』
明治40年には『神社祭式行事作法』が定められたした。『神社祭式行事作法』では〔再拝拍手〕について、「再拝→拍手二→一揖→奏上→一揖→拍手二→再拝」と、明治8年の『神社祭式』の内容をより具体的に記述されました。
他にも、これまで大祭式について官幣社と国幣社で作法が異なり、また同一の神社内でも、祈年祭、新嘗祭、例祭等の祭祀によってそれぞれ祭式が異なっていましたが、これが一本化されました。
さらに、府県社以下についても包括して制定されたことで、全国一律の神社制度が更に整合性の取れたものに改められていきました。
しかし、明治40年の『神社祭式行事作法』でも網羅されていない部分は多く、不備な点の修正が必要でした。祭祀制度の整備が進められて 大正には『官国幣社以下神社祭祀令』『官国幣社以下神社祭式』 『官国幣社以下神社神職斎戒ニ関スル件』など制定され、神社制度の拡充が進んでいくことになりました。

神道指令と神社本庁設立に伴う祭式行事作法の大改革「国家公共性の排除」
昭和17(1942)年に、これまでの祭式作法には近世の諸派の式法が混入していることを理由として『神社祭式行事作法』の改正が行われました。また、 終戦後の昭和20年12月5日には神道指令に基づく変革に伴い、翌21年に神社本庁が設立されました。
神社本庁という全国の神社を包括する組織の設立に伴い、祭祀に関する新たな規定が必要となりましたが、制定の重要性を鑑み、まずは大正3年に定められた『官国幣社以下神社祭祀令』に準ずることを方針として定めました。しかし、終戦後の情勢から『官国幣社以下神社祭祀令』をそのまま取り入れては神社の地位が危ぶまれるとの懸念が上がり、できる限り国家公共性の部分を排除し、祭祀は氏子崇敬者だけのものと根本的に改正せざるを得ませんでした。
【昭和32年、46年の『神社祭式行事作法』の改正】「春祭・秋祭」の改称、国民祝日祭の削除等
終戦から10年以上経過した昭和32年、神道指令によって歪められた部分の一部改正が行われました。
また、昭和46年には皇室国家との関係を密接にし、国家公共性の部分を取り戻すべく大きな改正が行われました。この時の主な変更点は下記の通りです。
大祭について「春祭」、「秋祭」を「祈年祭」、「新嘗祭」と改称
中債について「国民祝日祭」を削除し、「歳旦祭」、「元始祭」、「紀元祭」、「天長祭」、「明治祭」を新設
遙拝と大祓を神社祭祀から切り離して、別途規定を以って公布
以上のように、祭典の意義がわかるよう終戦以前に用いられていた祭典名に復すこととなりました。
【まとめ】近世(江戸後期・明治時代)以降の神社祭典式次第及び作法についての制度年表
| 明治2年 | 官国幣社祈年祭式 |
|---|---|
| 明治4年5月 | 官社以下定額・神官職制等規則 |
| 明治4年9月 | 四時祭典定則 |
| 明治6年 | 官幣諸社官祭式 |
| 明治8年 | 神社祭式 |
| 明治40年 | 神社祭式行事作法 |
| 大正3年 | 官国幣社以下神社祭祀令 |
| 大正3年 | 官国幣社以下神社祭式 |
| 大正3年 | 官国幣社以下神社神職斎戒ニ関スル件 |
| 昭和17年 | 神社祭式行事作法【改正】 |
| 昭和20年 | 神社祭式同行事作法制定 |
| 昭和32年 | 神社祭式同行事作法【改正】 |
| 昭和46年 | 神社祭式同行事作法【改正】 |