祭儀の内容については宮内庁職員ですら知らないとされており、神嘉殿の中ではどのようなことが行われているかはトップシークレットです。
したがって、祭儀の内容についての詳しい説明は天皇家の人間しかできませんので、ネット上どこを探しても「即位後初めての新嘗祭が大嘗祭だよ」程度の説明しかされていません。
しかし人間という生き物は内緒にされると余計に気になってしまうもの。
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新嘗祭とは ~わかりやすく説明~
新嘗祭とは古代より11月中卯の月に行われてきた天皇がその年に収穫された新穀などを神に供えて感謝の奉告する祭儀です。また収穫を感謝することで種が成長し来年も多くの実りをもたらすように願う儀式でもあります。
新嘗祭が行われるようになった起源については古事記と日本書紀に記述されています。
日本書紀では「天孫降臨の際に高天原の神聖な稲穂を持たせた」とされており、これが日本の稲作の起源とされています。これを斎庭稲穂の神勅と言います。神様からいただいた稲穂によって稲作がもたらされたため、その年の収穫に感謝する儀式として行われるようになったのです。
また、新嘗祭は全国各地で行われていた土着の収穫感謝祭という側面も持っており、7世紀ごろには宮中でも新嘗祭が行われていました。
では新嘗とはどのような意味なのかというと。「新」とは新穀、「嘗」とは秋祭りや食すを表します。
したがって 「新穀を献上して行う夏祭り とか 米や野菜、魚などをお供えしてもてなす」ということを指します。五穀豊穣を感謝し、皇祖神と供食することで神霊と一体となり、天皇としての霊験を新たにするのです。
ただし、ここで注意しておきたいのは宮中行事として行われていた新嘗祭には収穫感謝の意味はないという点です。もともとの新嘗祭は天皇が新穀を召し上がることを目的としており、後に収穫感謝の祭りと習合し現在全国の神社で行われている形式になりました。
宮中とか古代という言葉を聞くと新嘗祭とは我々の生活とはかけ離れたものに感じられますが、石川県周辺では「あへのこと」という田の神を家にお招きし、もてなすという行事で国の重要無形民俗文化財・世界無形文化遺産に指定されており、また全国各地で行われている秋祭りも同様の意義をもって行われていることから、新嘗祭は多くの民間習俗と関係しており私たちの生活に根付いたものであるということができます。
新嘗祭の式次第と内容
新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭
新嘗祭の前日には鎮魂祭という祭事が行われています。
鎮魂祭とは宮中の綾綺殿で行われる儀式で、天皇の魂を強化することを目的としています。この儀式はもともと11月の第二の寅の日(冬至の時期)に行われており、冬至祭とも言われます。
なぜ冬至の時期に行われていたかというと、中国を起源とする陰陽五行説では夏至を陽・冬至を陰と解釈したからです。陰の日には天皇の「気」が弱まるとされ、天皇の気を回復させることが目的とされていました。
宮中での新嘗祭当日の式次第
新嘗祭は宮中三殿(賢所・神殿・皇霊殿)と廊下で結ばれた神嘉殿で23日夕方から24日未明にかけて、夕の儀と暁の儀の二回に分けて行われます。
夕の儀18時~
掌典職(宮中祭祀を担当する部門)の祝詞の後、掌典職を先頭にして、その後純白の衣装をまとった天皇陛下が神嘉殿に入られ、その後を侍従が三種の神器を持って入ります。
その後、皇太子殿下と皇太子の証である「壺切御剣」とともに入られます。
神嘉殿の中は見ることができないが、中には神座があり そこには畳と枕が置かれているとされていますが、これは天照大御神に翌朝までお泊りいただくためです。
そして神座の前には神饌を供えるための敷物が敷いてあります。
天皇陛下自身で神饌をつくられ、それを采女と言われる女官が天照大御神と天皇陛下に配膳します。その後、天皇陛下は御告文を読んで神に感謝してから、御直会でこれを召し上がります。
この儀式には皇太子ですら参加することができず、皇太子殿下は廊下で待機され天皇陛下の所作が終わってから拝礼し、続いて皇族と参列者が神嘉殿前の庭から拝礼します。
暁の儀23時~
暁の儀では夕の儀と同様に儀式が進められます。
神嘉殿の前庭では篝火が焚かれ、宮内庁楽部の楽師が和琴や笛の音に合わせて神楽歌を歌います。
昭和天皇は69歳の時、医師から暁の儀の参加を止められました。また70歳になってからは夕の儀も参加時間短縮のため途中から参加され、途中で退出されていました。平成23年以降は、現在の上皇陛下も夕の儀と暁の儀の参加時間を短縮されています。
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こんなに違う!新嘗祭と大嘗祭の違い
即位後最初の新嘗祭が大嘗祭ということは皆さんご存じだと思います。
祭儀の場が違う
新嘗祭では神嘉殿で祭儀が行われます。
一方、大嘗祭では大嘗宮と呼ばれる祭殿をつくり天照大御神をお迎えして儀式を行います。この祭殿は「悠紀殿」「主基殿」という建物を含む木造建築からなります。
悠紀とは斎酒(ゆき)とも表され神聖な酒を意味し、主基とは「次」とも表され、悠紀に次ぐという意味です。
どちらも樹皮が付いたままの黒木を用い、屋根には青草、壁には草や筵で覆われています。平安時代以前は床を張らずに草を束ねて敷いていましたが、平安時代以降は床がつくられ加えて階段なども作られるようになりました。
また、大嘗宮には膳屋と臼屋という建物が付属しており臼屋では脱穀精米して膳屋で神饌として調理することになっています。
古代では神事の7日前に着工し、5日で建造、そして神事終了後はその日のうちに取り壊されていました。現在は一般公開され数日後に取り壊されることになっています。
饗宴が違う
古来、新嘗祭では神事の日とその翌日の辰日に豊明節会と呼ばれる饗宴が行われていました。
一方、大嘗祭では神事の日から翌日の辰日に悠紀節会、巳日に主基節会、午日に豊明節会が続けて行われていました。
大正時代以降は数日間行われていた饗宴を統合して「大饗の儀」を数回に分けて行うようになり、平成以降は即位礼と大嘗祭の間が長くなったため即位礼正殿の儀直後に「饗宴の儀」が別に行われるようになりました。
また、大嘗祭では諸国の語部による古詞の奏上や九州からの隼人舞・吉野からの国栖奏といった服従儀礼の伝統を引く地方からの芸能ほか五節舞が演ぜられました。一説では大嘗祭では五節舞を踊るのは5人、新嘗祭では4人とされています。
中世の新嘗祭・大嘗祭の中絶以来、五節舞が行われない時期も続きましたが、大正時代以降復興し大嘗祭の饗宴の儀でのみ五節舞が行われており、新嘗祭での五節舞は未だに復興されていません。
参列者が違う
新嘗祭には女性皇族は参列することができません。
一方で大嘗祭には皇后の参列があります。
献穀米が違う
新嘗祭では全国でつくられた献穀と皇居で天皇がつくられた米を混ぜて使います。
この献穀という制度は古来から続けられており、現在は各都道府県の農業団体などが献穀する農家を選びます。その後「お田植祭」と「抜穂祭」を行い 収穫された米が皇居に送られ、農家の代表者は天皇陛下に報告を行います。
これに対して大嘗祭では「悠紀田」や「主基田」と呼ばれる田でつくられた米が使われ、この田は古代から伝わる亀トで決められています。令和の大嘗祭では「悠紀田」は栃木県高根沢町大谷下原で銘柄は「とちぎの星」、「主基田」は京都府南丹市八木町氷所で銘柄は「キヌヒカリ」でした。
歳費が違う
皇室費は「内廷費」「宮廷費」「皇族費」に分類されます。
「内定費」とは天皇、上皇及び内廷皇族の生活等日常生活に関する費用
「宮廷費」とは公的な活動や皇室財産の管理等に関する費用をいいます。
新嘗祭を含む宮中祭祀は政教分離の原則から私的な行為とされており、内定費から支出されます。令和二年度は3億2000万円が内廷費として計上されています。
一方、大嘗祭は公的な活動とされ宮廷費から支出されており。令和の大嘗祭では27億円が支出されました。
宮廷費とは公的行為に関する費用であるため、大嘗祭は公的活動であるということになります。
これについて政府は「大嘗祭は宗教的性格は否めず国事行為とは言えないが、皇位の世襲制をとる我が国の憲法下においてはその儀式について国として深い関心を持ち、その挙行を可能にする手立てを講ずることは当然であるため、大嘗祭は公的性格を持ち 大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当である」と説明しています。
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新嘗祭と勤労感謝の関係
11月23日は新嘗祭が行われる日であり、勤労感謝の日でもあります。
明治5年(1872年)に太政官布告によって紀元節(後の建国記念日)や天長祭(後の天皇誕生日)と共に祝日に定められました。しかし戦後には新嘗祭を祝日とすることには反発が上がり、国事行為とは切り離されたため昭和23年7月「国民の休日に関する法律」で勤労感謝の日として定められることになりました。
したがって、勤労感謝の日とは五穀豊穣に感謝する新嘗祭をルーツにして「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを目的に定められて日です。
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